真の東京シューレ / The Real Tokyo Shure Army, RTSA / あっちはニセモノなので、Schuleになっちゃった このページをアンテナに追加 RSSフィード

17-05-2010

『プレシャス』とネオリベ

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 プレシャスはレーガン時代のアメリカに生きている。彼女の境遇は、ネオリベ進行過程において喧伝された「貧困の文化」ファンタジーそのものである。福祉制度に寄生するシングルマザー。虐待の連鎖。教育「意欲」の欠乏。

 プレシャスの生存戦術もまたファンタジーへの逃避だ。彼女はセレブとして注目を集めている自分を妄想したり、虐待する母親のやさしさや無関心な数学教師からの好意を想像する。この映画を、そのような現実逃避から人間関係に支えられた自己肯定への成長物語と見ることはできない。じっさい、ブッシュ、クリントンとバトンがわたっていくなかで新自由主義化が進行していったことを思えば、プレシャスを取り巻く客観的諸条件は、終幕後いっそう厳しいものとなっているに違いない。現実は何もよくなっていない。プレシャスは最後まで覚醒することなく、ファンタジーに囚われている。

 映画には、教師やソーシャル・ワーカーといった生権力のエージェントが登場する。プレシャスは、数学教師の好意を夢想したようにそうした管理暴力を美化していく。

 だが、観客は言わなければならない。不正義は不正義で、悪は悪だ。こんな世界はおかしい。

 まず、彼女が当初在籍していた中学校からの排除。プレシャスの妊娠を知った校長は、冷酷な軽蔑を隠そうともしない。それでいて、オルタナティブ・スクールに体よく追い出す方針を決めるや、まるでそれがプレシャス自身にとって望ましい選択であるように語る。「停学」処分を受けてオルタナティブ・スクールを訪れたプレシャスは、その受付で既に退学手続きがなされていたことを知る(字幕で「停学」が「退学」となっていたのはミスリーディングである)。これはとんでもない不正義である。オルタナティブ・スクールは、「もう一つの選択肢」ではない。排除の受け皿だ。

 当初、プレシャスはオルタナティブ・スクールへの批判的洞察を行っている。テストは無力感を与えるためのものだし、事務員も教師も初登校した生徒に対して無愛想である。だが物語が進むにつれて、彼女たちが「いい人」であるかのように見えてくる。また、テストの成績が向上したことも自己肯定感の材料となる。

 これはソーシャル・ワーカーについても同様である。彼女たちは、福祉を恫喝として貧困階級を監視・管理する役割を担っている。福祉は本来、無審査で万人に保障される権利である。しかしネオリベ体制においては、子どもが学校にちゃんと通っているかとか、扶養実態があるかどうかといったことが細かくチェックされる。

 プレシャスの母親は、そのような暴力に対して正しく怒っている。どんな理由があろうとも、虐待してはならないし、レイプの傍観者であってはならない。だが、我が子へのレイプの傍観者にさせられることもまた、はかりしれない被害である。そのときにだれも手をさしのべることはなかった。ソーシャル・ワーカーは、母親一人を断罪する。

 なにが問題なのか? ズバリ、資本主義、人種主義、家父長制だ。これらは「生き方」の選択や気の持ちようでどうにかなるものではない。必要なのは自己肯定感ではない。革命である。母親の「何の資格があって私を悪者にするのだ」という怒りからそのことを思うのであれば、この映画に一定の意義を見いだすことができるだろう。

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